新型コロナウイルス感染症のパンデミックから、私たちは多くのことを学びました。
ウイルスの遺伝情報は驚くほど早く解析され、PCR検査が普及し、ワクチンが開発され、重症化を防ぐ治療法も整備されました。現代医学が持つ「病原体を見つけ、診断し、治療する力」は、かつてない速度で発揮されたと言ってよいでしょう。
しかし、診察室ではもう一つの現実が見えてきました。
「熱は下がりました。でも体が戻りません」
「検査では異常がないと言われました。それでも仕事に復帰できません」
「少し動いただけで、一日中寝込んでしまいます」
感染そのものは終わっている。PCR検査も陰性になった。肺炎も改善している。それなのに、以前の生活へ戻ることができない。
この状態が、いわゆるLong COVID(新型コロナ後遺症)です。
私は10月8日に刊行する新書『回復力を取り戻す!』の中で、このLong COVIDをかなり重要なテーマとして取り上げました。なぜならLong COVIDは、私が長年考え続けてきた一つの問いを、医学全体へ突きつけた病態だと思うからです。

病気が治ることと、人が回復することは、本当に同じなのだろうか。
本書でも、感染後に疲労感、息切れ、ブレインフォグ、集中力低下、睡眠障害などが長く続き、その背景として慢性炎症、免疫調節異常、血流障害、自律神経の異常、ミトコンドリア機能低下など、複数の仮説が研究されていることを書きました。
そして最近、その問いに対する研究がさらに大きく進み始めています。
Long COVIDは「一つの病気」ではないのかもしれない
最近あらためて注目したのが、米エール大学の免疫学者、岩崎明子教授の研究です。
岩崎教授はLong COVIDの病態解明への貢献により、2025年の慶應医学賞を受賞しました。記事でも、Long COVIDが長期の倦怠感や息切れなどを伴う世界的課題であり、その機序解明が将来の治療法開発につながる可能性が紹介されています。
さらに興味深いのは、その後の治療研究です。
岩崎教授は、Long COVIDの一因として、感染後もウイルスあるいはウイルス由来物質が体内に残存して病態に関与する可能性について研究しています。記事では、Long COVIDの人でウイルス表面由来タンパク質が多く検出されるという知見を背景に、それを標的とする治療研究が進められていることが紹介されています。
しかし、さらに重要なのはその先です。
Long COVIDはウイルスの持続だけでは説明できない可能性があります。自己免疫が関与するケースも考えられ、複数の原因を研究していること、そして将来は「原因ごとに対処する個別化医療」が必要になる可能性があるとされています。
これは、Long COVIDの見方を大きく変えます。
つまり、
Long COVID = 一つの原因による一つの病気
ではなく、
Long COVID = 感染をきっかけとして複数の生体システムが元へ戻れなくなった状態の集合
なのではないか、という見方です。
Virus clearance ≠ Biological recovery
私はここに、非常に重要な問題があると思っています。
感染症医学では当然、病原体を排除することが重要です。
しかし、
Virus clearance ≠ Biological recovery.
ウイルスが検出されなくなることと、生体が回復することは、必ずしも同じではありません。
感染という大きな刺激を受けると、免疫は活性化し、炎症が起こり、代謝が変化します。細胞はエネルギーの使い方を変え、神経系や内分泌系もそれに応答します。
健康な身体であれば、感染が収束したあと、こうした反応も終息へ向かいます。
炎症を終わらせる。
免疫を再調整する。
傷ついた組織を修復する。
エネルギー代謝を立て直す。
睡眠や自律神経のリズムを戻す。
そして少しずつ、日常生活へ戻っていく。
私は、この一連のプロセス全体を「回復」と考えています。
新書でも、cure(治癒)を「病気そのものが改善すること」、recovery(回復)を「その人の生命システムが再び機能し、生活へ戻っていくこと」と分けて考えました。
Long COVIDが私たちへ教えているのは、まさにこの違いではないでしょうか。
「炎症が起こること」より「炎症を終われないこと」
ここで、もう一つ重要な視点があります。
炎症そのものは悪者ではありません。
ウイルスが侵入すれば免疫が反応する。炎症を起こして感染した細胞を排除し、傷ついた組織を修復する。
これは生命を守るために必要な反応です。
問題は、その反応が終われなくなることです。
新書では、私はこれを「炎症終息能力の低下」という視点から書きました。感染が終わったあとも炎症が十分に収束せず、身体が修復へ移行できない。この状態を「炎症がある」という静的な捉え方ではなく、「炎症を終わらせられない」という動的な異常として見るわけです。
Long COVIDは、この考え方を理解するうえで非常に象徴的です。
感染という危機に対して反応できなかったのではない。
むしろ反応した。
しかし、その反応から回復側へ切り替わることができない。
ここに本質があるのかもしれません。
ミトコンドリアはどこに関わるのか
そして私は、もう一つの存在に注目してきました。
ミトコンドリアです。
ミトコンドリアは単なる「細胞の発電所」ではありません。エネルギー産生に加えて、免疫、炎症、細胞内シグナル、ストレス応答、細胞死など、傷害を受けた細胞がその後どう振る舞うかに関係する重要なハブです。
Long COVIDについても、ミトコンドリア機能の変化が研究されています。
私が新書で紹介した研究では、ME/CFSやLong COVID患者の血清を、健康な人の細胞から作製した3D骨格筋モデルへ加えると、筋収縮力の低下やミトコンドリアの変化が観察されたと報告されています。長時間曝露では筋萎縮やミトコンドリアの断片化も認められました。
これは非常に興味深い現象です。
患者本人の筋肉だけの問題ではなく、血液中を流れる何らかの因子が、離れた組織の機能やエネルギー代謝へ影響している可能性を示唆するからです。
ただし、ここは慎重でなければなりません。
Long COVIDの原因が「ミトコンドリア障害である」と確定したわけではありませんし、ミトコンドリアを標的にすればLong COVIDが治ると証明されたわけでもありません。
重要なのは、Long COVIDを一つの臓器、一つの分子、一つの原因だけで理解しようとすることに限界が見えてきたということです。
そこで「Recovery Capacity」という視点が出てくる
私は35年以上、ATL、免疫、慢性炎症、ミトコンドリア、老化など、一見すると異なるテーマを研究してきました。
そしてLong COVIDの患者さんを診ながら、以前から抱いていた問いが再び浮かびました。
なぜ、生命は元の状態へ戻れなくなるのか。
病名は違います。
ATLも、Long COVIDも、ME/CFSも、糖尿病も、認知症も同じ病気ではありません。原因も治療法も違います。
ですから、これらを「同じ病気」と考えるべきではありません。
しかし生命の側から見ると、
炎症を終わらせる。
免疫を調整する。
エネルギーを取り戻す。
損傷を修復する。
環境の変化へ適応する。
そして生命システムをもう一度組み立て直す。
こうした能力が必要であるという共通点があります。
私は、この統合的な能力を、
Recovery Capacity――回復力
と呼んでいます。
新書では、「病気が起こることだけではなく、『戻る力』そのものが少しずつ失われることが問題なのではないか」と視点を転換し、ミトコンドリア、免疫、炎症、睡眠、代謝、エピゲノム、そして心まで含めた生命全体の統合的な能力としてRecovery Capacityを位置づけました。
Long COVID研究の進歩を見ていると、この問いはますます重要になるように思います。
「何が残っているか」から「なぜ戻れないのか」へ
これからLong COVIDの研究はさらに進むでしょう。
ウイルスやその構成成分の残存なのか。
自己抗体なのか。
免疫調節異常なのか。
血管や自律神経なのか。
代謝やミトコンドリアなのか。
おそらく答えは一つではありません。
患者さんによって異なる病態があり、その組み合わせも違う。だからこそ、原因に応じた層別化と個別化医療が必要になるという方向性は重要だと思います。
その一方で、私はもう一つの問いも持ち続けたいと思います。
What remains after infection? だけではなく、
Why can’t the body recover?
そしてさらに、
How can we restore Recovery Capacity? です。
病原体を見つける。
病気を診断する。
原因を治療する。
それらはこれからも医学の中心であり続けます。
しかし、その先にもう一つの医学が必要なのではないでしょうか。
病気が治ったあと、その人がもう一度歩けるか。
働けるか。
考えられるか。
眠れるか。
家族と笑えるか。
そして、もう一度、自分らしい人生へ戻れるか。
Long COVIDが医学へ突きつけているのは、単なる「感染後の後遺症」という問題だけではないと私は考えています。
それは、「治す」とは何か
「回復する」とは何か
という、医学の根本にある問いです。
パンデミックは、多くの命を奪いました。
しかし同時に私たちへ、これまで十分に見てこなかった生命の能力を問いかけました。
人は、なぜ回復できるのか。
そして、なぜ回復できなくなるのか。
これからの医学は、病気を診るだけではなく、回復する能力を診る医学へ。
私はLong COVID研究の最前線に、その新しい医学の入口が見え始めているように感じています。
Cure is not the end.
Recovery is the goal.
そして、その回復を支える力こそ、
Recovery Capacity.
私が新書『回復力を取り戻す!』で皆さんと考えたかったのは、まさにこの生命の力なのです。