― 危機を予言するのではなく、危機から回復できる社会をつくる ―
2013年、私は天然痘テロが起こるかどうかを予言しようとしていたのではありません。考えていたのは、万一起きたとき、人類はどう備え、どう被害を抑えるのかという『対策』でした。
2026年8月24日、政府はCBRNEテロへの対策を強化するため、新たなアクションプランを取りまとめました。
Chemical――化学。
Biological――生物。
Radiological――放射性物質。
Nuclear――核。
Explosive――爆発物。
このニュースを見ながら、私は13年前のことを思い出しました。
2013年6月。
私は、WHOの天然痘根絶に大きく貢献された蟻田功先生とともに、『公衆衛生』という医学雑誌に一本の論文を書きました。
タイトルは、
「天然痘テロ対策はどうあるべきか?」
でした。

天然痘は「終わった病気」だった
1980年、WHOは天然痘の世界根絶を宣言しました。
人類が感染症そのものを地球上から根絶した、歴史的な出来事でした。
しかし、天然痘が自然界から消えたからといって、その脅威まで完全に消えたと言えるのだろうか。
私たちは、その問題を考えました。
当時すでに世界では政治的な紛争が続き、生命科学は急速に進歩していました。
そして私たちは論文の中で、天然痘ウイルスを人工的につくる可能性や、未報告のウイルスが悪用される可能性についても論じました。
もちろん、
「天然痘テロが起きる」
と予言したかったわけではありません。
むしろ逆です。
起こる確率は低いかもしれない。
しかし、
もし起きたときの影響が極めて大きいのであれば、社会はそれに備える必要がある。
それが私たちの問題意識でした。
13年後、同じ問いが形を変えて戻ってきた
それから13年。
世界は大きく変わりました。
私たちはCOVID-19パンデミックを経験しました。
戦争が起こりました。
エネルギーや食料の供給網が揺れました。
ドローンが戦場を飛ぶようになりました。
AIが急速に進歩しました。
生命科学も、2013年には想像できなかった速度で発展しています。
そして2026年、日本政府はCBRNEという複合的な脅威を想定し、国家レベルで備えを再構築しようとしています。
私はそのニュースを見ながら考えました。
危機の形は変わっても、問いそのものは変わっていない。
「何が起こるか」より、「起きたあとどうするか」
未来を完全に予測することはできません。
次の感染症がいつ起こるのか。
戦争がどこまで広がるのか。
新しい技術がどのように使われるのか。
誰にも正確には分かりません。
だからこそ私は、13年前とは少し違う問いを持つようになりました。
What will happen?
ではなく、
Can we recover when it happens?
何が起こるのか。
ではなく、
何かが起きたとき、私たちは回復できるのか。
という問いです。

医学も、同じ問いを抱えている
これは、社会だけの話ではありません。
人間の身体も毎日、小さな危機にさらされています。
感染。
炎症。
酸化ストレス。
DNA損傷。
代謝異常。
心理的ストレス。
それでも若い身体は、多くの場合そこから回復します。
炎症を収束させる。
損傷した分子を処理する。
細胞を修復する。
ミトコンドリアを入れ替える。
免疫を再調整する。
そして再び、身体を安定した状態へ戻していく。
生命とは、
危機が起こらないシステムではありません。
危機が起きても、そこから戻ろうとするシステムなのです。

13年前には持っていなかった言葉
2013年に「天然痘テロ対策はどうあるべきか?」を書いたとき、私はまだ、この考えを一つの言葉で表すことができませんでした。
しかし今なら、一つの言葉があります。
Recovery Capacity.
回復力です。
危機を予測する能力。
危機を防ぐ能力。
危機へ備える能力。
もちろん、どれも重要です。
しかし、それでも危機は起こります。
そのとき最後に社会を支えるもの。
それは、
危機のあとに機能を取り戻す能力
ではないでしょうか。

細胞から文明まで
私は長い間、細胞や免疫、ミトコンドリアを研究してきました。
そして今、一見まったく違うように見える二つの世界に、同じ原理が存在するのではないかと考えています。
細胞は危機を感知する。
身体は危機へ応答する。
人は傷ついても立ち上がる。
社会も危機から再建される。
そこには、
Detection → Response → Repair → Adaptation → Reorganization
という共通した流れがあります。
そして、その全体を支える能力こそ、
Recovery Capacity
なのではないでしょうか。

強さとは、「何も起こらないこと」ではない
2013年、私は天然痘テロ対策について考えていました。
2026年、私は回復力について考えています。
13年間でテーマが変わったように見えるかもしれません。
しかし振り返ってみると、
私はずっと同じ問いを考えていたのかもしれません。
危機に直面したとき、人間はどうすれば生き延びることができるのか。
医学は何ができるのか。
社会はどう備えるべきなのか。
そして今、その問いへの私なりの答えが少しずつ見えてきました。
強い身体とは、病気にならない身体ではありません。
病気になっても回復できる身体です。
強い社会とは、危機が起こらない社会ではありません。
危機が起きても、機能を保ち、立て直し、そこから学ぶことのできる社会です。
そして、おそらく文明も同じです。
Crisis reveals vulnerability.
Recovery reveals capacity.
危機は、私たちの弱いところを明らかにする。
しかし回復は、
私たちの中に残されている可能性を明らかにする。
13年前に天然痘テロ対策を考えていた私は、まだその言葉を知りませんでした。
今なら、その言葉をこう書きます。
Recovery Capacity.
危機の時代だからこそ、
医学も社会も、
この力を育てる時代へ進む必要があるのではないでしょうか。

